〈倶子オフィス〉著書「俳優がゆく」より

ひとり舞台 「みちのく力士伝」より

 甚句会と趣味の会

            

はるか明治の土俵の上によ
花と咲きたる玉椿
開闢
(かいびゃく)以来の小兵(こひょう)ぶり
関脇守りて活躍す
身の丈 五尺と二寸ほど
ダニと呼ばれて喰い下がる
(ず)ぶねり・足くせ奇手妙技
押しても引いても技が出る
大関・横綱 恐れさせ
巨体転がる土俵上
常陸山
(ひたちやま)とは水入りの
三度引き分け大熱戦
幕内在位十四年
炎の闘志 血の稽古
名人関脇 玉椿よ

    

 身長わずか5尺2寸(158センチ)” 角聖 ” 19代横綱・常陸山に喰い下がり、引き分けること3度。” ダニ ” と呼ばれた男。
 明治期の名大関・玉椿憲太郎の生涯を「ひとり舞台」にのせようと思い立ったとき、私の大相撲への対し方は大きく変わった。自分で書き下ろした相撲甚句『関脇・玉椿』を音声で流したいと思い、元 大納川
(だいながわ)・長本憲治甚句師範を自宅に招き、唄ってもらうと、
 「粟津さん本人が甚句を習われて、唄ったらどうですか?」
 誘いのままに「両国相撲甚句会」へ参加することになった。「玉椿」を調べゆくうち「大関・清水川」に行き当たる。

 昭和初期、第32代横綱・玉錦三右エ門と出世を競った若き小結・清水川は酒に溺れ、素行も荒れて、ついには本場所を放棄。相撲界から追放される。息子・清水川の土俵復帰を嘆願し、青森・五所川原の父・長尾元吉は遺書を残し、首を吊って果てた。53歳。遺書は倅の再起をひたすら願うものだった。まだ雪残る3月のことである。
 命賭けた願いは通じた。父の命と引き替えに心あらため土俵に戻った清水川は、昭和期最強の大関に大成した。『人生劇場』の作家・尾崎士郎は終生、清水川の後援者であった。

(中略)

 相撲のひとり舞台はややこしい。常陸山対玉椿。清水川対玉錦。俺は今、どちらの力士を演じてみせているのか。投げた。転んだ。どちらが? いやはや、忙しい。
 劇中、裸となって力士を演じる。あまりみっともない身体は見せられない。なにせ歴史に残る名力士を表現するのだ。俳優の肉体が問われる時である。客の視線に耐えうる、鍛えあげた肉体を持っているのか? 酒を呑みつつも、翌日は決まってジムへ行くのである。

 舞台は内容が問われるのは勿論だが、その日の出来、不出来が正直にお客さんの反応に出る。面白くなければ席を立ってゆく。正念場に逃げ道などない。
「役者は配役
(キャスティング)を待ち、貰ったセリフを覚え、間違えずに上手く言えたら、それでよし」と考えていた浅く安易な役者認識が、今は恥ずかしい。
 役者業に棚からボタ餅はない。自ら餅米を植える作業からそれは始まる。人を訪ね、調べ、脚本構成し、舞台化する。甚句を習い、ジムで肉体を鍛えあげる。私は人生後半にして、「本来の俳優」を演
(や)っていると思うのだ。
 
  


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